深紅の本棚

感想とか、思索とか。

はじめに

 常々感じていることなのだが、言葉の使い方を学ぶためには、言葉がどのように使われているかを知り、それを実際に試してみることが必要だ。単語レベルでその意味を理解していることと、その語を適切に使用できるかということとの間には銀河間に広がる絶対零度の真空よりも広くて深い溝がある。というのも、かつて私は、自分の文章のあまりの拙さを嘆いて、辞書を通読してみたことがあるのだ。全てを読んだわけではないのだが、私の脳の擁する語彙は確実に増加し、読解の能力や、同じ単語の繰り返しを回避する技術もそれに伴って向上した。けれども、そのように語彙ばかりを増やした結果として、私の文章は奇妙な読みにくさを生じた。日本語を母語としない人間が書いた文章のように、歪な言回し、機械的な語の置換により意味を変じてしまった慣用表現などが散見されるようになったのだ。自分で読み返しさえすれば気付ける類のものなのだが、それを修正することは困難である以前に、私はやりたくない。なぜなら、それらの歪さは私の文章力のある意味での向上によってもたらされたものであり、その部分の修正は、見せかけの文章力を剥ぎとってしまうものだからだ。その恥の意識から、私は歪な日本語を書き続け、もはやその奇矯さを感じないまでに私の言語感覚は拡張されてしまっている。これはまずいと思い始め、それで、私は私を矯正することにした。

 経験から、単純な語彙の増加と文章力の隔たりを知った私は、それを超えるためには、語の用いられ方そのものを記憶する他ない事を悟った。溝を迂回するのだ。語彙の純粋な混合による用法の拡大は、既存の言語用法を超えてカオスを生む。そのように使えるということと、実際そのように使われるということとは違うのならば、私が学ばねばならないのは、語が一般的にどのように使われているか、ということだ。サンプルを得るのに手っ取り早いのは読書であろうと私は思うのだが、私の読書量はそこそこの程度には達している。したがって、その用法を実際に使用し、手になじませる必要があるだろうことも明白だ。

 だから私は、読んだ本の感想をここに書いてゆこうと思う。使われていた言回し、筆者の文体を模倣しながら、その内容を論じることで、文章力を養うことが出来るだろうし、内容理解を深めることも出来る。当面の課題としては、私が最も苦手としている比喩表現の使用に焦点を当てて、文章を生成してみることとする。読者は重要ではないが、読んでくれるものがいるといるならば、それは素敵なことだと思っている。