深紅の本棚

感想とか、思索とか。

魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語の感想 ~キュゥべえの叛逆~

 観てきたので感想をば。もちろんネタバレを含みます。注意。

 

 魔法少女まどか☆マギカ(以下まどマギ)は邪道から王道への物語であったというのは各所で述べられていることだけれど、この邪道さについて少し考えてみたい。いったい、まどマギはいかようの意味で邪道であったか。

 まどマギについてまず取り上げられるのが、そのシビアな世界観である。魔法少女といえど魔女に負ければ彼女たちは死に、しかもその魔女たちはかつて魔法少女であったことが明かされる。道理にそぐわぬ希望の対価は不条理な絶望であり、基本的にはゼロサム、マイナスサムゲームなのである。この魔法少女らしからぬ暗澹たる雰囲気に度肝を抜かれた視聴者も多かったはずだ。けれどもこれらは、邪道の条件ではない。というのも、その他の王道とされるような魔法少女たちだって、幸福と勝利がはじめから約束されているわけではないからだ。彼女たち王道魔法少女も真剣である。自分の勝利を確信しているならそうではないだろう。作品として物語として大団円を迎えようと、その物語の内部世界においては、彼女たちが惨めに死ぬ可能性だってあった。魔女になり仲間を襲う可能性だってあったかもしれないのである。

 では、まどマギの邪道さの本質はなんであったか。ここでこれは邪道というよりも異質というべきであることが明らかになるわけだが、言ってしまえば魔法少女の仕組みを描いたことであろう。そして彼女たちの使う魔法の出処が、この宇宙の理の中で理由付けされたことに、この作品の唯一性がある。

 作中の魔法少女に力を与えたのはキュウべぇなるマスコットキャラクタだ。彼の胡散臭さ冷徹さは本作品を象徴しているように語られるが、重要なのはそこではない。本質的なのは、基本的には彼らが科学技術文明の使い手であることである。そう、これは魔法ではないのだ。彼女や魔女たちの起こす不可思議な事象は、作品宇宙の理屈で全て実現可能なのであり、その仕組はキュゥべえたち地球外生命が担っている。高度な科学技術は魔法と見分けがつかないとはアシモフの言葉だが、その懸絶した文明間の技術的格差によってあたかも魔法のように魔法が成立していたことを、その作中で明らかにした点で、魔法少女まどか☆マギカは邪道だったのである。

 しかし、お話はただそれだけでは終らなかった。最後の最後で、人類の希望が宇宙の理に干渉する。どういう理屈でかは分からないが、まどかの膨大な願いは、キュゥべえ達の仕組みを利用することで宇宙そのものへと干渉し、彼女は一つのシステムとして存在することになった。ここではじめて、まどかはほんとうの意味での魔法少女へと変貌を遂げたのだ。

 以上が、私が魔法少女まどか☆マギカを邪道から王道への物語であったとする所以である。それを踏まえて、魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語を見てみよう。

 叛逆の物語は、その構造においてはアニメ本編と殆ど変わらないというのが、私の感想であった。前半部分の魔法少女の活躍が、似非(つまり科学的な)魔法少女であるほむらの夢のなかのお話であった以上、そこでの奇跡は全て理論的な説明がつけられる。あらゆる影響を遮断するフィールドと、そこに選択的に投入された登場人物。故にその内側で真に魔法が生じるのならば、それは世界の理となったまどかに違いなく、それを観測しようというのがキュゥべえの目論見だ。そしてそのことに気づいたほむらは現実へと復帰し、彼女の魔女化とともに円環の理に回収されることとなる。そのままゆけばこれはただの邪道魔法少女モノだっただろう。全てに(作中宇宙の)理屈で説明が付けられてしまうから。けれども、ほむらもやはり、今や宇宙の法則となったまどか=円環の理に干渉する。愛によって世界の仕組みをねじ曲げてみせた彼女こその有り様こそ、前作のまどかに続き本当の魔法少女にふさわしく、よってこの物語も王道魔法少女へと昇華することとなる。めでたしめでたし。

 さて、では叛逆とはなんだったのか。叛逆の物語。WHOの明示されない、ただの叛逆。一見するとこれはほむらの叛逆である。旧魔法少女システムの担い手であったキュゥべえや、自分の本心を裏切ってまでして魔法少女を救うことを選んだまどかの、その自己犠牲への叛逆。しかし私は、同時にこれがキュゥべえの叛逆であったという見方を提示したい。作品宇宙内部における物理法則の体現者であったキュゥべえは、そのあくなき探究心をもって、円環の理に迫る。観測できるならば、干渉できる。そう言って宇宙の外側に存在する得体のしれない何者かにまで挑もうとする、彼らの姿には、どこか人間臭く、応援したくなる何かがあった。この物語で最も叛逆精神に溢れていたのは、キュゥべえと彼に代表されるこの宇宙の内側の者達(これには普通一般の人類も含まれる)だったのではないか、と。彼らの叛逆は結果として失敗に終わる。エンドロール後に流れた、ぼろぼろになったキュゥべえの、赤い双眸は印象的だ。魔法に敗北した科学の力。それ故に、魔法少女まどか☆マギカは、これからも魔法少女であり続けるのである。

はじめに

 常々感じていることなのだが、言葉の使い方を学ぶためには、言葉がどのように使われているかを知り、それを実際に試してみることが必要だ。単語レベルでその意味を理解していることと、その語を適切に使用できるかということとの間には銀河間に広がる絶対零度の真空よりも広くて深い溝がある。というのも、かつて私は、自分の文章のあまりの拙さを嘆いて、辞書を通読してみたことがあるのだ。全てを読んだわけではないのだが、私の脳の擁する語彙は確実に増加し、読解の能力や、同じ単語の繰り返しを回避する技術もそれに伴って向上した。けれども、そのように語彙ばかりを増やした結果として、私の文章は奇妙な読みにくさを生じた。日本語を母語としない人間が書いた文章のように、歪な言回し、機械的な語の置換により意味を変じてしまった慣用表現などが散見されるようになったのだ。自分で読み返しさえすれば気付ける類のものなのだが、それを修正することは困難である以前に、私はやりたくない。なぜなら、それらの歪さは私の文章力のある意味での向上によってもたらされたものであり、その部分の修正は、見せかけの文章力を剥ぎとってしまうものだからだ。その恥の意識から、私は歪な日本語を書き続け、もはやその奇矯さを感じないまでに私の言語感覚は拡張されてしまっている。これはまずいと思い始め、それで、私は私を矯正することにした。

 経験から、単純な語彙の増加と文章力の隔たりを知った私は、それを超えるためには、語の用いられ方そのものを記憶する他ない事を悟った。溝を迂回するのだ。語彙の純粋な混合による用法の拡大は、既存の言語用法を超えてカオスを生む。そのように使えるということと、実際そのように使われるということとは違うのならば、私が学ばねばならないのは、語が一般的にどのように使われているか、ということだ。サンプルを得るのに手っ取り早いのは読書であろうと私は思うのだが、私の読書量はそこそこの程度には達している。したがって、その用法を実際に使用し、手になじませる必要があるだろうことも明白だ。

 だから私は、読んだ本の感想をここに書いてゆこうと思う。使われていた言回し、筆者の文体を模倣しながら、その内容を論じることで、文章力を養うことが出来るだろうし、内容理解を深めることも出来る。当面の課題としては、私が最も苦手としている比喩表現の使用に焦点を当てて、文章を生成してみることとする。読者は重要ではないが、読んでくれるものがいるといるならば、それは素敵なことだと思っている。